昔の大阪

図書館で古地図を見つけました。
淀川三角洲の発達 推定地図」という名前です。
何千年か前ですけど・・・わかります?ちょっとわかりにくいですね。

大阪湾のことを「武庫の入江」と書かれていますね。
ですから、濃い色の部分は海と川ですね。
左上に「武庫川」と書いてあるのが見えます。
あ、武庫川はもう兵庫県ですね。

左上-右上-右下のぐるり外側の部分は確定した陸地ですね。
白い部分は三角洲で、大雨が降ったら形が変わる地域でしょう。

右下から左上に向かって伸びている細い陸地があります。
難波崎と書かれていますがこれは今の「
上町台地」でしょうね。

こうして見ると、ほとんど昔は海だったようです。

和歌山市出身の私は子供の頃大阪へ行く時は
いつも南海電車でしたが、電車の中は潮の香りがしていて
電車の窓からずっと海が見え隠れしていたものでした。
今はほとんど埋め立てられて、覗けるのは3分くらいでしょうか。
数十年前と比べても全然変わりました。

下の地図は1903年(明治36年)のものです。私が図書館でコピーしてつなぎ合わせ、川と海を青く塗りました。
この頃と現在ともずいぶん違います。
大阪で「第5回内国勧業博覧会」という万博が開催された時の大阪市地図です。
この頃は八百八橋と言われたように、大阪市内はたくさんの川が流れていたようですね。

落語家の桂米朝さんのお話によると、古典落語のお話の舞台はだいたい江戸時代末期から明治時代でして、
その頃は水道はもちろん、家庭で使えるような井戸はあまり普及していなくて、
毎朝「水売り」というのが飲料水を売りに来て、それを買って水がめに入れて使っていたそうです。
「上等の水」は大川の水ですが「安物」はそこら辺の川の水だったそうです。

私が左上に濃い青色で「淀川放水路予定地」と書きました。元々淀川と言うのは大川(天満川)の事なんだそうです。
京橋のあたりでカーブして中ノ島を挟んで土佐堀川と堂島川に別れてまた合流して安治川になり海に注ぐ、、、あの川のことです。
この川は大雨が降ればちょくちょく氾濫して洪水を起こす困った川だったそうです。

そりゃあ琵琶湖から来て、たくさんの川が合流した川だもんね。ダムも無いし。
ちなみに「大阪停車場」(
マーク)は今の梅田の大阪駅ですよ。

淀川と新淀川

こちらは着色していないので見にくいですが、どうかごかんべんを。

上が1885年(明治18年)で下が1929年(大正4年)の大阪市北部の地図です。

ある日、私は淀川区の地図を見ていて「
淀川」と書いてあるのに気が付きました。よく見ると途中から名前が変わっていたのです。

新淀川は
人工の放水路、つまり川の氾濫から街を守るために造られた運河で、明治時代に足かけ13年かけて造営したものでした。


私の住む十三(じゅうそう)は京の都から数えて13番目の渡し場だったことから名付けられたそうです。


古いほうで十三のところを流れているのは「中津川」と申しまして、「十三橋」というのがかかってます。橋がかかる前は「十三の渡し」と言って、渡し船で往来していたお話がたくさん残っています。


大阪停車場は大阪ステンショと呼ばれ、鉄道ができる時にこの場所は街外れの何もない草ぼうぼうの場所だったそうです。鉄道の初めと言えば蒸気機関車ですからね。

大阪の遊び場

火を焚いて煙を上げて走る汽車はとても物騒に思ったんでしょうな。
当時は火災保険なんか無かった時代ですから、火事になると全財産を失うわけですからね。
大阪は商人の町。この時代の一番の有力者は呉服問屋。
彼らが「街中を汽車が走るなんてとんでもない。」と大反対してこの場所になったそうです。

明治・大正から昭和の初期って、戦争の関係からか、あまり遊びの話を聞きませんでしたよね。

「お年寄り」の方、たとえば昭和元年生まれの方で現在79〜80才。
高齢化社会で、まだまだ人数がおられるとは言え、この頃の方たちは幼少期〜青春時代は太平洋戦争の関係であまり遊んでおられません。

この写真を見て「行った事がある。」と言われるのは明治〜大正初期生まれの方ですから100才近い方ですね。

写真左は初代通天閣。右はロープウェイでつながったホワイトタワー。いずれも今は無き、「ルナパーク」と言う都会のリゾート・テーマパーク内にあった物です。

この写真左は通称「南の五階」の眺望閣、右は「北の九階」凌雲閣です。上の「ルナパーク」より時代は前です。

眺望閣は、明治21〜22年頃に大阪にできたレジャーセンターのトップバッターで、場所は現在の浪速区東関谷町あたり。
現在その旧地に「五階百貨店」という電気器具や道具の雑多寄合店舗があるのはその名残だとか。

凌雲閣は、眺望閣のすぐ後にできた大規模レジャーセンターで、場所は今の阪急梅田駅の東側(茶屋町?)。
広い敷地内にはボート遊びができる人工池・温泉場・大弓場・料理屋・乗馬コーナーまであったらしいです。

昔ってもっと質素なイメージがありましたので驚きました。

遊郭なんか派手ですからね。まあ、こちらは想像に難くないので取り上げるのはやめときます。

この場所にはその昔「今宮商業倶楽部」という遊園地があり、
1903年(明治36年)には大阪で「第五回内国勧業博覧会」という日本で初めての万博が行われ、
その際にその会場の敷地の一部として、取り壊されたそうです。

博覧会は、イルミネーションが施された西洋建築、 自動車やタイプライターなどの展示場、 美術館、
象やトラ・ワニ・ダチョウ・コブラなどの世界動物園、 メリーゴーランドや今で言う急流下りなどのアトラクションなどもあり、
大成功を収めたイベントだったそうです。

そしてそれが終った跡地に通天閣をシンボルタワーとしたルナパークなどができました。

初代通天閣はトリビアの泉でも紹介されましたね。
1912年(大正初年)に建てられた当時の「新世界ルナパーク」という遊園地ですが、
内容を見ると、ここは通天閣とホワイトタワーをシンボルにした一大娯楽施設でして
凱旋門をモチーフとしたビルの上にエッフェル塔風の鉄塔を乗せた通天閣。
その北側をヨーロッパ風、南側をアメリカ風の町並みにし、5軒の映画館、浪速節の花月亭、落語の芦辺館、
喜劇のパーク劇場や絶叫マシーン、ローラースケートホール、野外大演舞場、音楽堂、不思議館、 エジプト館、
ラヂウム温泉場にショッピングモールなどがありました。

ルナパークは、連日の大入り満員の大盛況でしたが徐々にさびれ、 大正末期には700坪の広い敷地には
円形の噴泉大浴場にサウナ、演芸場に 理容師付きの化粧室、温水プールなどの健康ランドに改装され、
戦災で焼失するまで人気がありましたそうです。

そして初代通天閣は1943年(昭和18年)に解体の上、 供出(軍事用鉄材として寄付すること)されまして
1956年(昭和31年)に現在の2代目が再築された訳です。

写真左の初代通天閣と右のホワイトタワーは 写真のように「針金渡り」と呼ばれたゴンドラでつながれていたそうです。

何度も言いますが私は「戦前」って言ったらホントに禁欲的で質素で地味なイメージがあったんです。
77才の方が「私は知らないけど、うちの母は『そこへ行くと 一日遊べた。』と言ってましたよ。」と話してました。

そう。遊んでたんですよね。

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このちょくちょく氾濫する淀川は、仁徳天皇の時代から治水工事に堤防を造ったりしました。
豊かながら問題の川でして、苦労の歴史があります。

私の住む町、十三(じゅうそう)には「波平通り」という道があります。
阪急電車の十三駅西口を出るとすぐ左側に細く短い飲み屋街があります。

鉄腕アトムの体にサザエさんのお父さんの顔で「鉄わん波平」。
誰が思いついたか、とてつもない組み合わせですね。

1999年頃に街路灯を設置した際にこの人形を取り付けたのですが
市の許可が降りなかったらしく、すぐ取りはずされました。

「あぁやっぱり。これはむ無理だわ。」と思っていましたら
交渉の結果、4年ほど前になってやっと許可が下りたそうです。

これを「恥を知らない大阪人め!」と受け取るか、
それとも 「かわいいじゃん。おもしろいことするなあ。」と思うか。
いずれにしてもインパクト強いですよね。
右下は夜間の写真(裏側から)です。

ちなみに十三駅西口を出て右に行くと、そこは「しょんべん横丁」です。

さらに、ちなみに、「あしな鍼灸科」に行くには十三駅東口ですから駅の反対方向です。

私も十三の住民になって26年が過ぎました。
十三っていう地名もあまり知られなくなったのか、最近は「何てお読みするのですか?」と聞かれます。

昔、俳優の藤田まことのヒット曲「十三の夜」で有名になり、
大阪市のどこにあるのか知らなくても、「十三のねえちゃん」のセリフ、
繁華街、キャバレー、風俗、ラブホテルなどを連想する町が十三だったのです。

「思ったより風俗店少ないやんか。」
これが最近の事情ですが、まだ十数件はあると思います。

数は減りましたが、まだ健在のラブホテルの従業員のおばさんのお話。
「最近は女が男を引っ張って入ってきよる。 まあ3組に1組はそうじゃな。
『何してるの!早よおいで!』
て言われて、女の後に男がついて入ってきますで。 お金を払うのも女やしね。」

うちにも 全身「もんもん」入りの人や小指を失った人は全然来なくなりました。
十三は暴力団の抗争の舞台になったりしたこともありましたが、
今はもうその事務所もありません。

昔は宝塚や芦屋・神戸のお金持ちのおじさんが
2号さんを十三に囲うことが多かったそうです。
そんな方たちのお仕事場であった大型料亭もつぶれましたし
おじさまに持たされた小料理屋さんも 減りました。
道端で聞こえた三味線の練習の音もほとんどなくなりました。

今や大阪でも十三は「淀川花火大会で降りる駅」くらいの存在になりましたが、
「平成淀川花火大会」を始めたのは十三の商店街なのです。

これも「なにわ淀川花火大会」に名前が変わりました。

ここは現在の大阪市淀川区十三(じゅうそう)です。

ある日、私のところに電話がありました。「昔の通天閣の写真はどこで手に入れたのですか?」と。
その方は大阪の街の歴史を紹介したホームページを作製されていました。とっても丁寧に作られてます。

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